読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

豆まきとトランプ政策



↑おもしろい広告を見つけてとんでもないしつけがあるんだなと思いつつ、節分に思いを馳せてみた。

福は内、鬼は外。
節分といえばこのフレーズ。

しかしよく考えるとこれは非常に危険であることがわかる。

まず第一に
自分さえ良ければ何でもOK的な意味をはらんでいる点。

鬼は外。

追い出された鬼は雨風をしのぐために他の家に行くことになる。

つまり鬼を死滅させるのではなく追い出すだけでは鬼の総数は変わらず、ババ抜きみたいに他に押し付けるだけになることは容易に想像がつくだろう。

Aさんの家が豆まきをする。
Bさんの家も豆まきをする。
Cさんの家はしない。

鬼A、鬼Bは鬼Cのところに居候する形となり、C家は3鬼を抱えることになる。

ではC家も豆まきをしたとしよう。
するとD家が4鬼だ。

結局はこれの繰り返しで、豆まきしないところに鬼が集中することになるチキンレースの螺旋階段を形成するだけなのである。

本来ならば鬼×1の厄災で済んだD家は鬼×4の波状攻撃を余儀なくされ、没落する。

A家「Dさんのおうち大変らしいわよ。」
B家「えーそうなの?怖い怖い。」
C家「うちも気を付けなくちゃ。」

自分たちが元凶だとの意識なく、自分たちはますますの御加護を受けれるよう精進しようとする姿。

鬼畜の所業に他ならない。

現代社会はまさにその縮図だ。
富を成すものはますます富を得、貧しきもの貧しきままである。

格差は累乗的に開く一方だ。アメリカンドリームなんて言葉は陳腐化し、既得権益を握りしめたものだけが冗長していく。パナマ文書なんて世界的な大スキャンダルだと僕は個人的に思うけれど、今やその後の報道は一切なく、きっとほじくられたら困る人たちが権力者ばかりだということが何よりの理由であろう。長いものには巻かれるべきなのだろうか。

鬼を追い出すのではなく、鬼としっかりと向き合って折り合いをつけながら自分たちに包含していく。これが正しい豆まきの考え方であると僕は思う。

そして杞憂すべき二つ目の点は
追い出された鬼たちが徒党を組む可能性が非常に高いことである。

外に追い出された鬼がアチコチでフラフラしている様子を想像してみて欲しい。

鬼A「あれ?鬼Bさん?こんな時間に顔を腫らしてどうされたのですか?」

鬼B「いやー、お恥ずかしいところを見られてしまいましたな。ははは、今日って節分でしょ?豆を思いっきりぶつけられて追い出されてしまいましてね。」

鬼C「うわー、助けてー!」

鬼A、鬼B「ど、どうされましたか!?」

鬼C「外に出ても追いかけて豆をぶつけてくるんです!」

鬼A「それはけしからんですな!ルール違反にもほどがある!」

鬼B「そういう鬼Aさんはなぜこんな時間に?」

鬼A「家出、みたいなものですかね。」

鬼C「家出・・・?」

鬼A「子供たちも大きくなって私じゃ怖がることもなくなってきましてね、倦怠期かな?なんて思うこともあったんですけど完全に愛が冷めているというか、A家のミーティングを聞く気はなかったんですけどたまたま聞こえてきてしまってね、今年の豆まきどうする?って。そしたら下の子がなんて言ったと思います?『鬼なんていねーよ!』ですって。ここにいるよ!って叫ぼうかと思いましたよ。青山テルマか!みたいなツッコミ期待して。けどふと思ったんですよね、いくら叫んでも彼らにとって私はもういない存在なんだなって。泣いたなぁ。呑めない酒を煽って。泥酔ですよ。これがほんとの鬼殺しだー!って独りで荒れましたよ。」

鬼B「辛い思いをされたんですね。」

鬼A「はは・・・ええ、まぁ。」

鬼D「突然申し訳ない。話をお伺いさせていただきました。」

鬼C「Dさんいつの間に?というか、どうしてDさんがここに?」

鬼D「Aさんと同じというか、ちょっと違うんですけど、私も自分の存在に疑問を覚えまして飛び出してきたんです。」

鬼B「といいますと?」

鬼D「ほら、みなさんご存知の通り、D家って豆まきしないんですけど、そもそも節分の文化がないようでつまり私の存在なんて最初から無いことになっているんです。鬼Aさんみたいな急な展開も辛いでしょうけど、最初から存在がない辛さも相当なもので・・・耐え切れず飛び出してきました。存在を認めてくれるところに行こう!と。」

鬼C「我思う、ゆえに我在り。なのか、我在り、ゆえに我思う。なのか。哲学的というか、そんな悩みもあるんですね。」

鬼たちに重苦しい空気が漂う。

鬼A「・・・組みませんか?」

BCD「っえ?」

鬼A「徒党、組みませんか?ほら理由は違えども我々は何かの縁があってこうやって今ここにいる。思い知らせましょう我々の力を!」

赤信号みんなで渡れば怖くない
社会心理学でいう"リスキーシフト"だ。

個々ではある程度の常識や人格を備えている人や鬼なのに、集団となった時になし崩し的に危険な方へと傾倒していく。これがリスキーシフトだ。暴徒化する群衆などを見たことがあるだろう。まさにそれが起きようとしている。

また、ランチェスターの法則の観点からも人間にとって不利となる。

ランチェスター戦略といえば経営学に触れたことがある人ならばご存知だろうが、その戦略の元になる法則が2つある。

第一次世界大戦の時にイギリスだかそのへんの人が提唱した法則らしいが

要は

原始的な戦い方ならば、戦闘力=武器の性能×兵士数

高度な戦い方ならば、戦闘力=武器性能×兵士数の2乗

ということ。

原始的っていうのは一対一で殴りあうとかそんな感じ。
高度っていうのは遠隔で広範囲で爆弾を投げ合うような感じ。

相手の顔を見ながら棒で叩き合うのと、顔も名前もわからないけど多分この辺に打ち込めば周辺のみんな含めてきっと吹き飛ぶだろう、的な戦い方です。

後者が確率戦とも言われるわけです。

まぁ武器性能に変わりがなければ兵士数の多いほうが有利なわけ。
それが確率戦ならば2乗の力になるということである。

1の2乗は1であるが、4の2乗は16。

豆をまいて鬼を外に追いやったことで、鬼は徒党を組み、そしてその鬼たちに確率戦に持ち込まれたとしたら、16倍の力をもって襲い掛かってくる。

例えば、通常の4人家族が家で豆まきをしたとしよう。原始的な戦いだ。

武器といえば
人間は豆、鬼は金棒とパンツ。

豆の性能を1.0として、金棒は3.0、パンツは1.0としよう。

人間の戦闘力=1.0×4人=4.0
鬼の戦闘力=(3.0+1.0)×1人=4.0

見事なまでの互角だからこそ、毎年節分がうまくいくのであろう。

次に4人家族VS追い出された鬼4人による、家対外での遠隔戦を想定してみる。

高度な戦いである。

武器は先ほど同じで
人間は豆、鬼は金棒とパンツ。

人間の戦闘力=1.0×4人の2乗=16.0
鬼の戦闘力=(3.0+1.0)×4人の2乗=64.0

人間側の壊滅は一目瞭然であろう。

ましてやリスキーシフトで鬼たちのモラルはもはや崩壊している。

豆が当たって「痛いよ~。」なんて優しさを見せてくれていたあの鬼はもういない。

そこにいるのはパンツを振り回しながら金棒を躊躇なくフルスイングする正真正銘の鬼だ。

その鬼は我々人間が作り出してしまった鬼であり、鬼はむしろ被害者である。

登場人物誰もが幸せになることなく、血で血を洗う最悪のシナリオ。

鬼が鬼であることを認め内省し折り合いながら付き合っていればこんな事態にはならなかった。

追い出す、という安易な行為に出たが故の悲劇である。

トランプ大統領にこのブログを捧げたい。